SHOJINとは―その土地に生かされ、その土地を慈しみ、そこから生まれ出た植物を敬愛し、その恵みによって身心浄化されることを喜びとする料理。
我々にとって植物あるいはその恵みである野菜、穀物、果物、海藻とは何でしょう?
長い歴史の中で、人類は、知恵を絞り、あらゆる手段を講じて生き延びてきた。その殆どは、飢えとの戦いであった。現代も多くの餓死者が地球上で見られる。
一方、先進国はじめ多くの人達は、欲望的な豊かさを満たし追求するあまり、人口の増加、生物生産環境の破壊が進行し、地球レベルの食糧難に瀕している。
言わば、人類の止めどない欲望の為に、自らの健康と環境を悪化している。
このような状況で、健康な身心で、健全な環境は維持することは困難になっている。
経済資本主義や経済合理主義は、人類の欲望を助長するばかりで、自らは怠惰になり、先人の知恵と努力の結晶である繁栄をも蝕む結果になっている。
その反省から、私は皆さんに提案をしたい。日本固有の発展を遂げた世界に誇る食の哲学である“SHOJIN”「精進料理」に光を当てることである。
1000年の歴史を有するこの食の哲学とは如何なるものかを身を以て知れば、現代の大きなテーマである「健康」「環境」「持続可能性」「マインドフルネス」に精進が貢献できることがわかるでしょう。
精進とは、一言で言えば、植物の慈愛に感謝し、ひたすら植物に向き合う日常生活を実践することです。
植物は、動物を生かし、浄化します。まさに、神仏の如く、奇跡の連続であります。植物がこの世から消えたら、我々は生き延びることはできません。植物の恵みに生かされていることに異論を挟む人はいないでしょう。この誰もが理解できるこの真実に、我々は、真の気づきが欠けているのではないでしょうか。
有形無形の生きる喜びを植物から賜り、健康健全な生活は成立します。これが、人類の正しい生き方の基本です。それ以上でもそれ以下でもありません。これで充分であると言う感謝の思いが健康に繋がるのです。その為に、試行錯誤して知恵を働かせ、彩りある生活となり、輝きを放ちます。
人類の文化の基本である、衣食住、全てが植物の恩恵で満ち溢れたとき、我々は真の喜びに満たされます。その他にも医療においても、植物によってケアされます。芸術も、植物の美に勝るものはないでしょう。その有形無形の美の形こそ、植物の奥義であり、圧倒されるでしょう。植物に、謙虚に感謝しなければいけません。
その為の、道が精進であります。
この道を歩むことで、人間本来の知性、感性、理性を磨き、品性に高めます。持続可能な身心健康、環境健全の為に、精進は大いに貢献することでしょう。
我々は、植物の恩恵に生かされています。このことは、ややもすると忘れがちです。
有形無形に植物は、我々の生命、生活、文化に大きく貢献する慈愛に満ちた存在です。
この植物と真摯に向き合うことが、精進の基本です。決して肉魚を否定するものではありません。しかし、その前に、植物とひたすら向き合うことで、先人は多くの知恵を生み出し、文化を創造しました。肉や魚を欲する気持ちは、欲望であります。欲望の炎は、留まることなく燃え上がります。そして、環境を破壊したり、持続可能なシステムも行き詰まらせ、深刻な健康障害を引き起こします。心は荒み、犯罪が増えます。肉の多食は、更なる欲望を駆り立て争いも増えました。
植物中心の心穏やかな慎ましい生活こそ、身心健康になります。犯罪も争いも減ることでしょう。衣食住すべてにおいて、植物中心の生活こそが、最も豊かで美しい人類の姿だと信じます。
精進は食に限らず、植物由来の素材を生かし、自らの手仕事で、丹精込めて作り上げる世界です。
染織も精進と言えます。木造建築も素晴らしい精進です。化学繊維を纏い、コンクリートの家に住んでは、健康健全に暮らせる気がしません。そうのような気の抜けた素材に、皆さんは愛着を感じますか。植物の慈愛に、心から感謝するからこそ、丁寧に手仕事で、糸を紡ぎ、植物染料で染め、機織り機で何日もかけて織り上げる。あるいは、森の木に敬意を払って、切り、丁寧に加工して柱にしたり、張りや床にして、家ができる。そこには、藁をすき込んだ土壁があり、紙でできた障子や襖、そして、い草で編まれた畳が敷かれています。これこそ、日本人が植物と向き合ってきた証であり、最高の美であり、健康健全の答えではないでしょうか。
今一度、日常の生活を衣食住から見直してみては、いかがでしょうか。そして、心から、植物に感謝して、その大いなる慈愛に報いる喜びの生活を始めませんか。植物にすべての答えがあります
人類は、植物の声に素直に従うことで幸福になり、平和につながります。
誰もが路傍の雑草に笑顔で寄り添える、そんな人になって欲しい。
仏教の第一の戒律である、不殺生から、精進が始まったと言われます。
しかし、残念ながら、現在では、その仏陀の教えとは、かけ離れ、動物はおろか人間同士の殺戮が絶えません。
清らかな世界とは縁遠くなり、多くの人類は、病気を多発させ、環境を汚し、場当たり的な消費に躍起になり、精神も異常をきたしています。
果たして、人類は進化しているのでしょうか。科学技術の進化は認めるものの、人類はむしろ相反し、劣化しているのではないでしょうか。
およそ持続可能な社会とは言えない現代にあって、少しでも人間本来の清らかで、無垢なる身心の復活に希望を抱きます。
そのための、先人の知恵がSHOJINです。多くの課題を抱えた現代人、現代社会に、植物の力と慈愛によって、持続可能性をもたらします。
身心健康
Health
身心の健康は、「快食快便」から!と言っても言い過ぎではありません。毎日、清らかな氣のある食を口にして、毎日、心地よく美しい便を排出することが、健康であることの実践であり、証であります。
「快食」は、肉を出来るだけ避け、体が喜ぶ食事であります。野菜、穀類、海藻、果物を旬に合わせて、調理することで、清らかな食事が確保されます。食材への思い(意識)も欠かせません。どうやって食材が手元にあるのか想像し、それに及ぼした天地の理に始まり、手間暇の数々に想いを馳せることで、感謝の念が湧き出づるでしょう。そうする中で、食材は、清らかになり、口にするに相応しいものになり、全ての細胞が喜ぶ食となり、初めて快食と言えます。
一方、「快便」は、「こころよいたより」と読みます。この便り=手紙は、どこから届いたのでしょう?体の全細胞からの手紙です。
最終的に、大腸でこの手紙は完成しますが、私たちにとっては、大変貴重な手紙です。これを毎日のように、届くわけですが、そのメッセージをきちんと読むことが重要な日々の作業です。手紙の回数、内容(色、形、硬さ、匂い、大きさなど)をじっくり読み解くことが最も身近で、重要な健康管理です。何故なら、その手紙は、我々が送った食や精神状態、環境全般に対する返事であるからです。
快便であれば、安心して1日が過ごせます。そうでなかったら、用心しなければいけません。振り返って、昨日食べた食事や、昨日起きた出来事、睡眠、飲み物、運動など問題など問題がなかったかを思い起こします。そして、反省して改善をはかります。この連続を通して健康管理が行われます。医師や病院の世話になる前に、人が人として出来ることは沢山あります。これも人類の知恵であるはずです。先人が唱えた「快食快便」こそ最高の健康管理でしょう。
トイレや排便に対する意識を改めてみましょう。トイレ(便所)こそ貴重な我が細胞とのコミュニケーションの場であり、大便、小便こそ我が細胞からの篤きメッセージであることを!
人間ドックでは、数値で健康診断をされます。そのデータから体の状態を推し量るのでしょうが、数値主義で、本当に健康は担保されるのでしょうか。日々のメッセージに思い(意識)を寄せることに、真の健康はあると信じます。
環境健全
Environment
人類による環境破壊の最初は、原野を開墾し、田畑を作ったことに始まります。それまでの狩猟採集生活から、栽培を始めたことで、
安定した収量の確保が出来、生活環境はじめ健康状態も大きく改善しました。人口も目を見張る勢いで増え続けました。さらに、家畜、酪農が始まり、動物由来の食糧も確保しました。同時に、飼育された家畜による公害(CO2、糞尿汚染、悪臭など)による環境破壊も深刻です。また、養殖による漁業も、風光明媚な美しい入り江などを汚しています。人間が、必要以上に食糧を確保する一方で、充分な世界的な分配もされずに、貧困による環境破壊も大きな問題になっています。裕福な地域に、貧困な地域から遠距離を輸送されています。つまりフードマイレージの問題です。一見豊かに見える食の過剰な供給は、同時に無駄なエネルギーや経費をかけ、環境破壊や貧困を増長しています。人類の欲望が、環境を破壊して、足るを知ることなく、限りなく環境は悲鳴をあげています。
田畑の栽培も、最低限の人類の営みであり、環境への配慮とすべきですが、残念ながら、欲望は尽きずに、より収量や害虫、雑草を嫌ってか、農薬、肥料(有機、無機共に)、除草剤の利用は、土壌、水資源、地域、海洋汚染を及ぼし、
近現代の蓄積は、環境のみならず人類そのものの健康をも脅かしています。
精進は、自然農の上に成立します。最も健康的な食事を提供する精進料理の哲学である以上、安心安全な食材を確保する為にも自然農は欠かせません。また手間暇かけ、機械を嫌う精進の精神もにも合致します。
このように精進は、環境への配慮を重んじています。我々人類を生かし、身心の健康を保つ最低にして最高の恵である野菜と真摯に向き合うことで、環境への負荷を最低限にすることにつながります。
さらに、人類の人類足らん、火や道具の使用は、料理の起源であると同時に、環境にも優しい営みです。現代の過剰な電気製品への依存(冷蔵庫、電子レンジ、IHなど)は、便利や合理性を追いすぎるゆえに、火力、水力そして原子力発電に依存し、それによる環境破壊は甚大であります。
ちなみに、電気の気は、生体の生体たる氣を損ない、氣のない食物とならしめ、それを口にすることで、病氣になります。電気依存による弊害は環境だけでなく、身心にも及ぼしています。また、氣のない食材として、農薬、肥料を使った慣行農業による野菜ですが、如何に氣がないかは、それらは、2、3日放置すれば、腐敗します。氣のある野菜は、枯れます。ですから、殆どの売られている野菜は、ビニールやラップに包まれ、冷蔵状態で売られています。こんな売り方をしているのは、日本だけです。なぜなら、世界一、農薬、肥料を使っているからです。ビニールやラップは、土に戻りません。ですから、無駄なゴミとしてまたまた、環境を破壊するのです。石油が殆ど取れないこの国で、こんなことに無駄遣いされ、限りなく環境を破壊する行為が日常化されています。
最後に、環境問題といえば、概して自然環境を言いますが、さらには、家庭環境、職場環境、体内環境、…いろいろあります。とりわけ、虐待など家庭環境の崩壊が深刻であります。これも、正しい食が家庭の真ん中にない結果もたらされた気がします。イジメや犯罪も同様に、日常の食事に多くの問題があるのではないでしょうか。その人の食歴を見れば、どういう傾向にあるか予想がつくでしょう。
精進の精神である野菜と向き合い丁寧に感謝で料理し、食することがすべての人間としての基本であると信じます。
食があらゆる(個人、家庭、職場、学校、地域、病院、国)中で真ん中にある環境づくりこそ求められます。そして、その真ん中で、精進の哲学と実践がなされていることが重要でしょう。正しく清らかな食をもって、身心浄化をはかれば、自然と安寧健康は保たれます。
持続可能
Sustainability
真の持続可能を目指す為には、基本的にモノを出来るだけ“買わない”ようにすることです。そして、生鮮食材を求めて、それを手間暇かけて、余すことなく調理することが、持続可能性を担保するために、我々が出来る第一歩でしょう。仮に、食材を第一次食材、第二次食材、第三次食材と大別すると、第一次は、畑や海から穫れたままの姿です。第二次は、カット野菜、捌いた魚でしょう。第三次は、調理済みの惣菜です。出来るだけ第一次食材を求めて、大量生産されたモノや、誰がどのように、どんな食材で作ったか分からない出来合いのモノを、口にしない努力が重要です。また、レトルト食品や冷凍食品に依存しないで、冷蔵庫や冷凍庫の使用を最小限にすることも、単に持続可能性だけでなく、健康面にも影響します。
健康で、環境に配慮した生活は、すなわち持続可能にも直結しています。そこには、ムダ、ムリ、ムラのない生活です。その為には、精神を脱落させ、意識を高め、欲望と怠惰を排除することが重要です。これこそが、精進の実践と言えます。持続可能を謳い文句や第一義に掲げても意味がありません。結果として、持続可能になるのです。
こうした実践は、資本主義あるいは経済合理性と相反するかもしれません。しかし、現実的に、増え続ける人口、高齢化(生産人口の減少)、生産農地の減少、飲料可能な水の確保…など深刻な問題は山積されています。個々人としてできることは、健康と環境に配慮する生活の実践に尽きます。それは、急激な坂道を、少しだけ緩やかにするに過ぎないのかもしれませんが、人類の知恵と精進によって、
今生きている我々が、少なくとも健康な身心で、健全な環境の中で生活できることが求められます。
身心脱落
Mindfulness
現代社会は、ストレスに満ちています。家庭、職場、学校、病院までも。目先の利益を追うあまり、家族団欒の柱である食が疎かにされ、家庭崩壊、 虐待、病気を生んでいるのではないでしょうか。私の小さい時は、貧しくとも、専業主婦の母がつくる料理は、健康だけでなく、家族の愛情、絆を深めました。決して、手抜きのない毎日の買い物、料理をする姿をそばで見ながら、あるいは手伝いしながら、とても幸せな時間が流れていました。これが多くの家庭で、当たり前でした。朝の目覚めを促すように、味噌汁の香りが漂い、湯気の向こうで母がまな板と包丁で野菜を刻むリズミカルな音も忘れられません。耳に、鼻に優しい時間が朝の喧騒の中でも過ぎていったものです。そうやって、誰もが、少々の辛さや苦しみをも乗り越える励みになったのでしょう。電気製品の音や冷え切った台所からは、何を感じますか。今日のこういう光景は、疲れた身心を癒すどころか、返ってストレスを増長させています。本来、料理は、その作り手も周りの人も至福に満ちていなければいけません。料理がストレスになっては、その素材も、出来上がった料理も、ストレスの塊となります。何度も申し上げている通り、食は、栄養をとるだけでなく、氣をいただくことを忘れてはいけません。氣のないもの、あるいは、モノ化して氣が抜けたものは、身心には災いになります。
ですから、せめて、料理する時は、精神を平安にし、食材に真摯に向き合う姿勢が求められます。楽をしようとか、手を抜こうとか、そういう思いでは、真の食とは言えないでしょう。料理することが、人類にとってどういう意味があるか、よく考えるべきです。人類だけに許された料理は、人類ゆえに疎かにされています。料理する事で、人類は進化し、文化を作り上げるほど豊かな生活を築き上げてきました。料理を盛る器や、作法、室礼、道具などいろいろな分野にも影響を及ぼし、ともに発展してきました。精進料理で欠かせない漆の器も、特に日本人が愛したものです。
その発展は、世界的な遺産と言えるでしょう。何千年という歴史の上に、日本人が培ってきた最高の食器に仕立て上げたのです。漆器は、軽く、口当たりが心地良く、熱い汁物でも手に優しく、その温度が伝わらず、子供でも持てます。しかも、器の傷や痛みに補修が可能ですので、持続可能にもなります。愛着も湧きます。この漆器で、料理を頂くと、不思議にも背筋が伸び、真摯に食することができます。まさに、こういう器と食を介して、作り手との心の交流ができ、心満たされます。精進料理は、限られた植物由来の食材を工夫して、無限の可能性を追い求めます。それは、結果として、健康、環境、持続可能性、そしてマインドフルネスに、福をもたらすのです。身心が平穏で健康であることが、精進によって確保でき、毎日の生きる喜びにつながります。誰もが、戦争や競争を嫌い、身の丈を意識しながら、植物に生かされることに感謝するようになるでしょう。植物は全知全能です。植物がこの世から無くなれば、人類は滅亡します。これは真実であり、声なき声を植物から聴き、そして、ひたすら実践することが人類の務めではないでしょうか。偉大なる植物へのささやかな報いとして。無為自然。
旬
< Shun >
季節の移ろいに応じた植物の恵みに身を委ねる。春夏秋冬、花、芽、葉、実、根、種と植物は全身全霊で、我々に最高の氣を送り込みます。無為なるものを無為なる心で、ありがたく頂きましょう。
身土不二
< Shindofuji >
植物が育つ土壌環境と人間の腸内環境は同一である。目に見えない共生体(何億個の菌たち)とどう付き合い、意識するか。我々は、決して土から離れることはできません。最後には、我々も土に帰るのですから。
一物全体
< Ichimotsuzentai >
植物の恵みには、余すところなく全てに意味があり、それで充分であります。植物は、土と水と光と空気から、人間に必要なものを形にします。我々は、その形を、整え(料理)、口にし、消化吸収する力を養います。
只管打座
< Shikandaza >
ひたすら胡麻擂り修行を実践します。正しい姿勢、呼吸で、円を描きながら胡麻をすることから、全てが始まります。胡麻の香りに包まれ、身心脱落します。胡麻をすることが目的ではありません。野菜と向き合うに相応しい身心を整えます。