小麦色に日焼けした農家さんが、次々と売り場に採れたての野菜を運ぶ。買物客でごった返す市場は、熱気に満ちて、野菜たちは一服する暇もなく次々と買物カゴに収まってゆく。
糸満にあるJAファーマーズマーケット「うまんちゅ市場」は、常に多くの人々と野菜で溢れている。6月初旬は収穫の端境期に当たるそうだが、それでも、トマト、ナス、キャベツ、レタス、インゲン、ジャガイモなどのよく知られた野菜たちに混じって、ゴーヤー、ハンダマ、シブイ、モーウィ、ンジャナ、紅芋、島人参などの琉球野菜がひときわ強い存在感を放っている。珍しいハーブや洋野菜もあり、パイナップル、マンゴー、パッションフルーツなど、沖縄ならではの濃厚な甘い香りに包まれた果物たちにもワクワクさせられる。
ご縁に導かれて沖縄の地で暮らすことになってから、糸満の野菜は、私が主宰する「琉球精進を楽しむ会」で重要な役割を果たしている。今回の企画では「慰霊の日」間近の糸満で、糸満野菜を使った精進料理をつくることになり、まずはその生産地を見てみようと、自然農法を実践している農家さんの畑を訪ねて回った。
そのうちの一人、東京で働いた後に糸満に戻って農業を始めたという島袋悟さんは、味が悪いために誰も好んで生産も消費もしないという、原種の島南瓜の栽培に取り組んでいる。農薬、肥料を一切使わずにつくられた島かぼちゃの味は、半信半疑で食べた先輩農家さんが驚嘆したというほど、まったりとした食感と甘さが心地よい。種も仕掛けもありません、といいたいところだが、そこには「自然の摂理」という当たり前の仕掛けがある。農薬、肥料を使わないということは、その購入のお金も、それを農地に撒く手間も不要。農家の健康を害することもなく、環境汚染も減らすことができる。さらには、栄養過多でない土には雑草が生えにくく、害虫も寄らず、水を蒔く必要もほとんどないらしい。つまり、人が余計に働かなくても、天地の摂理に沿って健やかな土の力と種の生命力に委ねれば、美味しい島南瓜に生まれ変わるということだ。
植物は皆、自己完結型の生命の循環機能を持っている。冬に落とした枯葉や枝が、菌の力を借りて土となり、自らの栄養を自らがつくり出す。それに比べて私たち動物は、常に他の厄介にならなければ生きていけない生き物だ。そして人間には、知恵を持ったが故の悲しいサガもある。必要以上に合理性や生産性を求めて植物の循環を無視し、過剰に薬や肥料を与えて、人の欲求に応えるよう強いるのだ。今、目の前にある自然農の畑の健やかなる空気、穏やかなる光景。植物に帰依し、その恩恵に感謝することを一から考え直す機会が、この島南瓜から与えられている。
私は料理するにあたって、メニューありき、レシピありきで野菜たちと向き合わない。真っ白な頭と心で臨むように心掛けている。それは、その季節、その瞬間を感じることであり、育ててくれた畑や農家を思いやることにもつながる。もちろん、何か目的があって買い物をする料理があってもいいのだが、それだけではつまらない。それでは筋書きを知ってから映画やお芝居を観るようなものだから、知識が邪魔をする。一瞬一瞬が自分と野菜との関係性における新しい「物語」になるからこそ、料理することが新鮮な喜びになるのだ。
私が実践している精進料理は、一つひとつの野菜に関心と敬意をもって、きちんと向き合うことから始まる。嫁入り前の身支度のように綺麗に洗われて並べられたり、足元を揃えたり、精一杯おめかしをしているその顔に、どれひとつ同じ顔はない。曲がっていたり、傷やシミがついていたり、虫に喰われていたりする見栄えの悪い野菜には、特に愛嬌を感じる。親元を離れた不安な娘たちに挨拶を交わし愛着が湧く。メニューが浮かぶのは、それからだ。幸か不幸か嫁ぎ先が決まった野菜たちは、今度は覚悟が決まったようにデンと構えて静かにまな板の上に座る。「切るなり煮るなり好きにするが良い!」いよいよ真剣勝負が始まる。
天地自然の摂理を受けて、陰陽五行(木、火、土、水、金)の仕組みのもとに芽生え、育った約30種類の糸満野菜が今、目の前に揃った。
今日の役者たちを五法(煮る、焼く、蒸す、揚げる、生)によって調理し、さらに五つの基本調味料(サシスセソ〜砂糖、塩、酢、醤油、味噌)で味付けをする。料理は起承転結、フルコースの五品とデザートを、五色(赤、青、白、黄、黒)の彩りに配慮して、五臓に障るという五葷(ニンニク、ネギ、タマネギ、ニラ、ラッキョウ)を避けて調理する。そうして皿や椀に盛り付けられた料理を、五感(視覚〈目〉、聴覚〈耳〉、嗅覚〈鼻)、味覚〈舌〉、触覚〈歯〉)で同時に感じながら味わい、五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)で消化吸収し、五臓(肝、心、脾、肺、腎)に清々しい精・氣・血を送り込み、蓄える。「料理」とは、天地の力をいただくための、人間だけに与えられた知恵なのだ。「料理」という漢字ニ文字には、理(ことわり)を料(はかる)という意味が込められている。宇宙、自然、生物、そして人類すべてに働いている摂理、原理、真理…その理をどうやってはかるのか?秤や計量カップでは到底はかれない深さ、重さがあるが、諦めるのは早い。実は、ヒントは誰しもが持つ「母」にある。
母の力は偉大だ。母そのものが大地になり、その人のすべてをはかる基準となる。そこには、自ら乳を出して自ら産んだ子を育てるという、生命誕生と生命連鎖の理を備えた絶対的な基準があり、料理の初源もここにある。母が絶対的に「自らつくる」という「覚悟」と、「自ら育てる」という「慈愛」に満たされたとき、自然と「料理」という形になるのだ。料理とは人間らしい生き方の基本であり、料理を疎かにすれば人間らしさは失われる。かつて、この糸満の地では、惨たらしい戦禍によって多くの尊い命が失われた。そのほとんどが健全なる庶民で、日々自然と向き合い、御先祖を尊び、自然の恵みを真面目に料理していたに違いない。飢えと乾きと絶望の中で死を迎えた人々の多くは、母親のつくる温かい料理を幾度も夢見たことだろう。母の味は、市販のどんなご馳走にも勝る。それに毎日食べても飽きないから不思議だ。
自然に沿った料理には三大原則がある。一つめは「旬」、二つめは「身土不二」、三つめは「一物全体」。「旬」は四季折々、季節の恵みに従ってありがたくいただくこと。「身土不二」は、体とその土地は一体であるから、生まれ育った土地、四里四方の植物の恵みを頂くこと。その土地の野菜を食すということは、その土地の太陽、水、空気、土をいただくことにつながる。「一物全体」とは、例えば大根一本を、皮も葉も根もすべて食べましょうということ。元来、自然界の賜物には捨てるところはないのだが、人間はわがままだ。栄養価を数字で表し、必要な要素だけを化学的に抽出して錠剤にしたり、液体にしたりする。そこには、植物に対する畏敬も感謝もない。私見だが、天地の恵みを限りなくモノ化した「いいとこ取り」のものは、すべて本質的に別物で、体には無効だと思う。そういう発想自体、自然への冒涜に思える。
沖縄は古来から、自然崇拝を大切にしている島だ。大きな岩や樹木や湧き出る水そのものが、聖域として祀られている。この豊かな精神性がある限り、この島の平安は存続すると感じる。自然の精霊たちが野菜という姿になって、我々の心身を育む。糸満が、世界一清らかな大地と、美しい琉球野菜のメッカであって欲しい。それを支えるのが母、アンマーの力だ。
今回は縁あって、「ゆっくい処おおしろ」のアンマー、大城邦子さんの台所で料理をさせていただいた。大城さんは民泊も手掛けていて、県外から来る学生たちを手づくりの家庭料理でもてなし、一緒にサータアンダギーもつくる。初めての体験は新鮮に、そして印象深く彼らの心に刻まれるであろう。不思議なことに、食べ慣れないはずの料理のほとんどを、学生たちはきれいに平らげるそうだ。これこそが真の平和活動ではないだろうか。彼らは糸満の野菜の力、祈りが宿る土地の力、そして糸満アンマーの慈愛を全身で受けとめたのだ。
料理を終えて、地元の皆さんが30種類の地野菜でできた精進料理に箸を進める中、慈雨で濡れた緑鮮やかなお庭にふと目をやると、御霊の化身のような黒い蝶が一羽、ゆったりと風に舞っていた。
棚橋 俊夫